かくれ里

木曜日, 2月 27, 2014

本地垂迹説



「原色日本の美術」を読み始めて、貞観彫刻が気になりだしたと書いたが、貞観彫刻は仏像以外にも神像も掘られている。この時代は仏教と神道を両立させるために神仏混交と言う信仰行為を理論付けていた。
 
仏教の伝来は6世紀の頃である。元々日本は神国で、仏教が国家の宗教になるまでには紆余曲折があった。天皇は神様を祀る中心的な立場であり、やはり100%仏教とは行かなかったようだ。
 
そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきた。歩み寄ったのは神の方で「私は本当は仏教の仏です(本地)が、日本では神としてやってます(垂迹)」と言うことにして両者を共存させた。
 
本地垂迹(ほんじすいじゃく)説はこういうことだが、この考えはその後幕末まで続いていた。しかし、明治初年の神道国教政策によって神仏は分離され本地垂迹説は消滅した。